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知られざる歴史への招待 その2 |
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日本の海賊船とは一体、どのような集団であったのか? |
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黒豚のルーツとは??? |
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唐芋(薩摩芋)のルーツとは??? |
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その謎に迫る!!!!! |
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ヨーロッパのバイキングは、皆の良く知るところであるが、日本における海賊、海賊船とは、貿易船の積荷を強奪していた所謂日本近海に出没していた海賊船や、瀬戸内海を縄張りとしていた村上水軍を連想する。 しかし、海外ことに中国や朝鮮国から恐れられていた海賊と言えば、少々意味が違ってくる。 それは、倭寇(わこう)と言われた存在である。 では、一体その、倭寇とはどのような集団であったのであろうか? 海賊として恐れられた倭寇の存在を解き明かしてみよう。 倭寇とは・・・・・ 「高麗史」によると、(1223年)貞応二年(八十五代後堀河天皇)四月、倭金州に寇し、(1225年)嘉禄元年四月、辺民慶尚道を侵す。とあり。これが史書に記述された倭寇の最初の記述である。 詳細を述べると、こうである。 1227年正月、肥前松浦の党が対馬の住民を誘い、数十隻の船隊を組んで半島に航海して沙島を攻め、(1227年)安貞元年四月に、我が辺民(他国人)が金州を攻めた。五月に転進して熊神県に侵入し、守将劉金徳と戦った。とある。これを境にして倭寇の侵略は執拗に続くことになり、高麗は、その防衛に疲れ切って、1392年七月には滅び、倭寇防御に功績のあった李成桂が代わって、朝鮮を建国したと云われる。 元や明が滅んだのも、倭寇防御に金銭と労力を使いその疲弊が原因のひとつだと云われる。 もう少し詳しく述べてみよう。大陸では、倭寇の侵略をどのように予知し、どのような策を持って防御したのであろうか? 倭寇の使っていた航路は、「日本風土記」によると、其入寇するや風に隋ひ、北東風強ければ則ち薩摩域は五島より大小琉球に至りて、風の変遷を見る。北東多ければ、則ち鳥沙門に至りて・・・とあり 大陸では、何時何処に、どの方向から押し寄せて来るかが予知でき、倭寇の動静は略把握していたようである。 「図書編」によると、縁海の備禦、万里幾く其の大を衛とし、軍四千六百四十人を置き、次を所とし、軍一千二百余人を置く。又、次を巡橋所となす。弓兵一百人、少なくも数十人を下らず、大小相繋ぎ、縦横相交わる。又、衛所は千戸毎に備倭船を設け、一百戸毎に一隻一衛毎に五所、総て船五十隻、毎船旗軍一百名、春夏には哨を出し、秋冬には固守する。とあり、 明の時代の、大がかりな倭寇の侵略を防ぐ、海防の様子を伺え知ることが出来る。 後には、明国の汪直と倭寇が手を組んで、暴れ廻るものだから、海防の成果は、なかなか上がらず、倭寇と秀吉の朝鮮遠征の為に明国は、滅亡したとも云われる。 しかしながら、大陸との貿易を盛んに行っていた倭寇は、何故大陸の海岸地帯を荒らしまわる海賊行為に及んだのであろうか? 時代の流れを追ってみよう。 1255年 貿易船を、五隻に制限 1271年 宗が滅んで元となる 1274年 文永十一年(九十代亀山天皇)と
1281年 弘安四年の元寇以後は、国交は途絶えたが、密貿易という形で貿易は続けられていた。 日本近海には、至る所に貿易船を襲撃する海賊船が出没するようになり、海上の治安は乱れに乱れていた時期であった。その為、貿易船は自衛の為に自ら武装し、盛んに中国大陸沿岸に出没して、通商を求めた。国交を禁じている両国である。上記するように、貿易船の数を厳しく制限する時代さえあった。誰をもってしても、通商の交渉など上手く行かないのは当然のことであった。 倭寇としては、正当に貿易をしたいのだが、その通商が上手く行かない。そこで、時には、通商に名を借りて、略奪を行なう者達まで出てくるといった始末であった。 これが、いわゆる大陸を侵略し略奪を繰り返した倭寇であり、倭寇船とは、日本の貿易船のことであった。 大陸では、倭寇の侵略に手を拱いて見ていたのであろうか? いや、そうではなかった。 元軍に因る薩州南岸の侵略 倭寇に手を焼いていた元軍は、倭寇を退治すべく薩州南岸に侵略して来た。その確かな場所は判らないが、打撃を与えた元軍は、帰帆の途についた。 それを聞いた、南海は三州(薩州、大隅州、日向州)の勇士達は、その仇を打つべく、船団を仕立てて、元を攻め込んだ。元の一城を奪い、又、弘安三年五月には、西海の辺民達は、固城、添浦、合浦などの地を襲って彼らに報いた。更に、1275年建治元年十二月には、元の四百余りの州を襲わんとして、兵を興したが、中止になった。元に対する敵愾心が、一挙に日本中に広がって行ったと云うことである。 元では、さらなる倭寇の報復を恐れて、沿岸に対する警備を強化し、和平通商の策をたてて、1299年には、詫状を史に持たせて慰撫策に出たが成功しなかった。 何故、薩州南岸侵略であったのであろうか? 倭国事略によれば、入寇する多くは、薩摩、肥後、長門の三州の人にして、その次は、則ち大隅、筑前、筑後、博多、日向、摂津、播磨、紀伊、種島にして、豊前、豊後、和泉の人も亦間々之有り。と記され、 又、「南海通記」第八巻に、明世宗皇帝嘉靖年中(1522~1566年)、倭の賊船大明国に入りて、其の辺境を侵すことあり。是、倭の後奈良帝の天文、弘治の年に当たる。其の国々は、薩摩、肥後、肥前、博多、長門、石見、伊予、和泉、紀伊の賊船なり。四国伊予の、熊島、来島、院島(現在の因島)の氏族将氏となりて、諸州を誘き来らすものなり。とある。 又、「金山衛劉志」によれば倭寇は、皆薩摩人なり。これを、導引するものは微州人汪直、杭州虎跪寺の僧徐海なり。汪直は、禁制品を海外に輸出し薩摩の松浦潟に根拠す。と、記してあり、明国では、倭寇すなわち薩州人という事になっていて、倭寇の根拠地が、薩摩半島一帯であると考えていたようである。元の時代からそのように伝えられ、故に、薩州、大隅州、日向州の三州沿岸一帯を侵略したと考えられる。 薩州に於ける倭寇の停泊していた最も重要なる港は、一体何処だったのだろう? 最も重要なる位置と地位を占めていたのは、古代から関白近衛家の荘園であり、南朝方の管理下にあった坊津であった。坊津は、その貿易船でもあった倭寇船の発着港であった。その坊津に元軍が、攻め込んで来たかどうかは、詳しい資料が残っていない。しかし、そのような、可能性があったことは、推察できる。 |
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坊津の唐人町にて、中国は唐の時代618年の頃から、既に飼育されていたと云う説がある。仏の町に、肉食とは些か異様な気がするが、中国の人々は豚肉を食していたので、入港して来た唐船や坊津に永住していた唐人達が、豚肉を欲しがらない訳はなく、唐から輸入することは、いとも簡単であったろう。それが、鹿児島黒豚のルーツだとされる。橘南渓の「西遊記」によれば、薩摩の人々が、豚肉を食べるのを珍しがったとある。坊津町歴史館所蔵の南蛮焼き水差しには、豚の把手が付いている。 |
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唐芋の伝来 唐芋(薩摩芋)は、中央アメリカ原産である。十五世紀末、ハイチ島からスペインに入り、ポルトガルに伝わった。更に、ポルトガルより、マレーシアに入った。スペインからは、呂宋(フィリッピン)及びモルッカに入った。とある。 薩摩芋の伝わった経緯を、年代を追って見てみよう。 1594年 明朝の万歴22年、陳振龍なる者呂宋より福建に伝え、全土に伝わった。 1597年 明より南琉球宮古島に入る。 1605年 琉球本島那覇に伝わる。 福建より、台湾に伝えられる。 1612~1613年 呂宋より唐の湊に入る。 1624年 琉球より肥前平戸に入る。 1624年 薩摩より長崎に入る。 1696年 宮崎安貞は、「農業全書」を書き、薩摩や長崎にて琉球芋又は赤芋として伝う。 作るもの多く見ゆ。と書いている。 1698年 琉球より芋の苗を、種子島領主種子島久基に贈る。 1705年 薩摩山川の漁夫前田利右衛門琉球に航し、持ち帰る。 1713年 下見吉十郎、薩摩伊集院より伊予国大三島に移植す。 1715年 原田三郎右衛門、薩摩より対馬に移植す。 1716年 江島為信、日向より伊予大島に入る。 とあるように、1612~1613年 呂宋より唐の湊に入ったとされている。 この記録を素直に解釈するならば、これが、日本の本土に上陸した最初となるようである。 では、唐の湊とは、何処のことであろうか? 鹿児島市にある鴨池町の唐湊(とそ)と云う説もあるが、どうも坊津のようである。なぜなら、坊津は西暦500年代の古代から、或いはその以前からと言う説もあるが、大陸と盛んに交易を交わしていた。 そこで、唐の港と歌われるようになったのである。 古代において、薩摩藩の島津家は未だ、戦いに明け暮れて薩摩足るものではなかった。 鹿児島市にある唐湊は、薩摩藩である島津家が三州(薩州、大隈州、日向州)を統一して後に、主に琉球貿易を行った際、その名がついたと思われる。 坊津の「唐の湊の芋」が、唐芋となったようである。これが、薩摩芋を唐芋と呼ぶ所以であり、日本に最初伝わったのは、沖縄県は宮古島であり、本土に最初に上陸した所とは、唐の湊つまり、坊津ということになる。 |
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